架神のカレー日記03.11前半
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2003年11月15日
カレーなし

 思いっきり寝坊して、会社に着いたら11時だった。

 帰りに新宿に寄り、ビックカメラでCD−Rに書けるペンと、あと、モニターにつけるフィルターみたいなやつを買った。ずっと以前から眼精疲労が気になって、しばしば目薬を差していたが、これで楽になれば良いのだが。ちなみに、パソコンはゲームをしているときよりも、文章を書いたり、サイトを見たり、動画や静止画の編集をしているときの方が何倍も疲れる。おそらく、小さな文字を読んだり、小さな画像をいじったりしていると疲れるのだろう。

 それから、モアというゲーセンに行った。私がいつも遊んでいるヴァンパイアセイヴァーは今日は何故だか大盛況で、13人くらいプレーヤーがいた。特に名だたるプレーヤーが多く、私が先日ボロクソに負けたプレーヤーが、その名だたるプレーヤーたちに10連敗とかしていた。ああ、なんだか、とても遠い世界だなあ。
 セイヴァーを2回ほど遊んだ後、3Fで新しいゲームを見ていると、「ESPGALUDA」という新しいシューティングゲームが稼動していた。タイトルに「ESP」と付いているので、これはもしや、と思い注視すると、やはりメーカーはCAVE。間違いない。わざわざ、ESPと冠することからも、これは「ESPRADE」の続編に違いない。
 今回のESPGALUDAのキーワードは「覚醒」。時間制限のある覚醒状態に入ることで、敵弾が遅くなり、ショットが強化される。さらに、覚醒中は敵弾に当たっても、自動でボムを使い回避してくれる。他の人がプレイしているのを見ていると、鬼のような弾幕で「なんじゃこりゃあ。初心者設計のESPRADEとは大違いだ。超凶悪な上級者用パターンゲームじゃないか」とガッカリしたのだが、実際やってみるとヤバそうな場面ではとりあえず覚醒しておけば一発即死も無いので、実はすごく初心者に優しいゲームだった。私のようなへっぽこシューターでも初回で3面まで行けたので、コストパフォーマンスもそれほど酷くない。でも100円は高いから、50円になってから遊ぼうと思う。

 地元駅について外に出ると雨が降っていた。まさか雨が降るとは思ってなかったのでビックリした。せっかくを新しく買ったのに、まだ下ろしてなかったから今日も大変不快な思いをした。そのうえ、雨に濡れた。家に帰ってうどんを作って食べた。

2003年11月14日
カレーなし

 昼頃起きて、昨日の硬いコメでキムチ雑炊を作った。

 今日は、主に昨日の日記を書いてた。洗濯をしたりCD作ったりもしたかったが、そういう気分ではなかったので、諦めて体を休めることにした。

 図書館に本を新たに借りに行った。友人に勧められたヴァージニア・ウルフ『灯台へ』を探したが無かったので、代わりに同じくウルフの『オーランド』を借りた。ちらと見たところ、読むのに少々精神力を要しそうな内容だったので、それとは別に何か気軽に読める本を探そうかと思った。
 まず最初に、ゲーテ『ファウスト』森鴎外が翻訳したものを借りようとしたが、それもなかった。次にデカルトでも借りようかと思ったが、気軽に読める本という最初の趣旨から外れていたので思いとどまった。しばらく迷った後、結局、山田風太郎『魔界転生』を借りた。『魔界転生』は映画・アニメ・漫画と派生した様々なメディアの物に触れていたが、オリジナルの小説版をまだ読んでいなかった。各メディアに派生した物が、どれだけオリジナルから乖離した内容だったか楽しみだ。私の予想では、映画→漫画→アニメの順で乖離の程度が大きくなっているだろう。アニメ版の乖離の甚だしさは監督が今川監督なので間違いない。江戸時代の話なのに人間がロケットに変形して空を飛んでいたくらいだ。

 その後、ハムカツ80円で購入し、昨日のミートソースの残りで作ったミートスパゲティの上に乗せて食べた。

 地上波の映画『パーフェクトストーム』を見ようとしたが、だるくなったのでやめた。ケーブルテレビの映画『死亡遊戯』を見ようとしたが、だるくなったのでやめた。

2003年11月13日
カレーなし

 朝、起きて朝食を摂ろうと炊飯器を開ける。む、なんだ。やけに質量が多い。いつもと比べて明かに違和感がある。恐る恐る一口食べてみる。硬い。
 どうも最近、夜すぐに眠くなる。夜12時くらいから意識が胡乱になる。昨日もそうだった。そして、胡乱な意識のまま、米を洗い、炊飯器にセットした。そういえば、米を洗っている時から、いつもより量が多い、洗いにくいと感じていた気がする。つまり。
 米を4合炊いていのだ。3合しか炊けない炊飯器で、米を4合炊いていた。そのせいで、米がこんなに硬いのだ。

 昨日69円で買ったカップラーメンを食べながら、その硬い米を食べた。硬い。だが、ラーメンが汁物ということもあり、一緒に食べると幾らかその硬さも軽減される気がする。しかし、むしろ昼用に作ったおむすびのほうが心配だ。

 仕事へ。昼に例のおむすびを食べた。やっぱり硬かった。

 帰りに新宿に立ち寄り、CD−Rやらケースやら両面印刷紙やら、CD製作グッズを購入する。また、無印良品1500円黒いスニーカーを購入する。私がユニクロや無印でばかり衣類を買うのは何も安いからというばかりではない。単色でシンプルなデザインは私の好むところだからだ。その後、普通の靴屋も見てみたが値段は無印のそれより何倍も高いのに欲しくなるようなものは無かった。私の嗜好は大変経済的だ。ついでに、肉が嫌いで野菜が好きな性分なら良かったのになあ。

 帰って、オムライスを作る。硬くて不味いコメとはいえ、無碍に捨てるわけにもいかない。硬いなら硬いなりに利用法がある。炒めるか、汁物にするか、だ。そういうわけでオムライスを作ったのだが、今日のオムライスはコメの量が多かったにも関わらず、とても美しく包むことができ、大変嬉しかった。オムライスは味うんぬんよりも美しく包めた時の喜びが大きい。綺麗なラグビーボール型のオムライスに、スパゲティ用のインスタントミートソースをかけた。素晴らしく美しい。料理って楽しいなあ。

 京極夏彦「絡新婦の理」を読み終えた。この作品はいわゆる探偵小説なのだが、京極夏彦のそれまでのシリーズと比べても、大変複雑なものだった。読んで理解する方も大変だが、こんなものが書けるというのは信じられない。一体どういう論理構造を持っていれば、こんなプロットが作れるのだろうか。京極氏は頭が良いとかいうレベルじゃなくて、頭がおかしいと思う。
 簡単に物語りの骨組を(ネタバレにならない程度に)紹介する。「絡新婦の理」では、それ一つで一冊の本が書けるような連続殺人事件2件同時に平行して発生する。その同時に発生した事件には、それぞれに動機も背景も持った殺人犯(犯人)が存在はするのだが、それらの犯人を動かす黒幕がまた別にいる。黒幕である真犯人はそれらの殺人犯に動機を与え、のみならず、動機を与えられた犯人が殺人を犯すような必要条件被害者にも与える。このように、真犯人は連続殺人事件が起こりうる「状況」を作るだけである。その際、真犯人は法に抵触する手段は取らない。真犯人は蜘蛛の巣のようなネットワークを形成し、そこに掛かった人物を糸を一本引くだけで操っていく。
 「絡新婦」は「じょろうぐも」と読む。読み名の通り、女性の蜘蛛の妖怪である。真犯人の女性をその絡新婦になぞらえ、蜘蛛の作り上げたネットワーク上での因果関係(ことわり)と呼ぶ。併せて、「絡新婦の理」。題名とテーマの相関関係が大変美しい。
 が、しかし、この作品。ものすごく複雑な作品である。単に連続殺人事件が2件同時に起こっていること、登場人物の役割・間柄が錯綜していることだけをもって複雑というわけではない。問題は偶然と蓋然と必然が各々のケースでどう位置しているのか捉えきれないことだ。蜘蛛の作り上げたネットワークと、ネットワーク上での登場人物たちの振る舞いとの間には完全な因果関係は無い。無論、ネットワーク外部の影響もある。犯人は糸を引くが、その引いた糸が一から十まで犯人の思うような結果になるわけでもない。それは作中でも語られている。結局、紆余曲折を経ながらも犯人は己の目的を達成するが、その過程における”偶然””蓋然””必然”の別が分からない。その事件のどこまでが犯人の企図した通りのものなのか、犯人の企図における「最低限必要な役回り」はどれとどれだったのか、逆に不確定性に対する計画の「あそび」の範囲はどれほどだったのか。そこらへんの構造が一度読んだだけではさっぱり分からなかった。間違いなく作者の中ではそれらの設定は完備してあるはずだし、判断に必要な情報は作中に全て盛りこまれているのだろう。しかし、複雑過ぎる。
 もし、私が一生遊んで暮らせる程の金を持っていて、毎日を無聊に暮らせるのであれば、この書を3度読み返して登場人物の因果関係を図にまとめ、時系列順に登場人物の行動を再構成するだろう。そうして後、物語の構成を肉付けする京極氏の筆力を楽しむことができるだろう。だが、残念ながら、私にはそのような楽しみ方をする時間的余裕が無い。せっかく素晴らしい作品があるというのに、それを味わい尽くすこともできないなんて、全く貧乏は罪だ。

2003年11月12日
カレーなし

 納豆を食べて仕事に行った。あろうことか、ついに今日、残業時間が5分を超えてしまい、泣く泣く70円を募金箱に捨てる結果となった。私の大切な70円がどこぞの植林基金に変わってしまった。大変遺憾である。

 何が遺憾かというと、まず第一に、罰金制度を己に設けたにも関わらず、うっかり7分間も残業してしまった己の危機管理能力の欠如だ。私も人間だ。あんなルールを決めてしまったものの、言わなければ誰にも分からない、黙って反故にしてしまおうかと何度も考え逡巡した。それは事実だ。認めよう。
 だが、それではダメだ、と思い直した。このような惰弱で中途半端な姿勢では、またウッカリと残業を繰り返してしまう。私の労働単価は1分あたり約10円だ。1分残業するごとに10円ずつ金を捨てているのだという自覚を明瞭と持つべきだ。私が今日70円を捨てることにより、その自覚をより明確にし、それによって、今後の経済的損失(残業)を防げるのであれば、これは投資と考えるべきだろう。私は斯様な理由で、断腸の想いで、血涙を流しながら、70円を投じた。
 遺憾である第二の理由は、「絶対に募金をしない」という訳の分からないポリシーのためである。私は小学生の頃、ウッカリ赤い羽根に募金したくらいで、それからは一銭たりとも募金などしていなかった。それが、なんだ。今日でもう一生分くらいの募金をしてしまった。ガッデム!信じられない。やりきれない!70円って普通の20代男性の通算募金額よりかなり多いんじゃないだろうか。すごく、すっごく損した気分だ。ああ、もう本当に残業はやめよう。残業だけはしちゃダメだ。

 家に帰って味噌煮込みうどんを食べながら、和製ドラキュラ映画の『血を吸う薔薇』を適当に見ていた。本当に適当に見ていたため、全然頭に入ってこなかった。ついでだから最後まで適当に見ようと、食後はCDを作りながら見ていたが、こうするともう本格的に何も頭に入ってこなかった。

 まだ11時半過ぎなのに、とんでもなく眠い。このまま、座ったまま寝てしまいそうだ。昨日も6時間は寝てるし、今日の昼はお昼寝までしているのに、どうしてこんなに眠いのだろう。春だからだろうか。

2003年11月11日
カレーなし

 朝から梅干ラーメンを作って食べて仕事へ行った。梅干ラーメンとは塩ラーメンに梅干を入れたものである。

 仕事の後、新宿に寄ったがお金が足りなくてが買えなかった。

 帰りにメロンパンを買った。カップやきそばも買った。夕食にメロンパンを食べたが、何だか物足りなかったのでカップやきそばも食べた。今日はそんな感じ。眠い。とても、眠い。

2003年11月10日
カレーなし

 10時頃起きた。食材が何もなかったので、親が送ってくれたサバ缶を食べた。サバ缶は値段が高すぎてとても自分では買えないが、高価なものだけあり、大変美味しかった。ごはんが進んだ。

 今日も相変わらず動画編集をしていた。やっと、ロゴムービーが完成した。必要な技術を随時勉強しつつ作ったので、わずか15秒のムービーに2日間も掛かってしまった。しかも、こんなムービーは本編には何の関係も無く、誰の評価の対象にもならない。さらに、おそらく一年後くらいに見直したら、「なんだ、このヘボムービーは!恥ずかしい!」と思うようなちゃちい出来だ。でも、とりあえず今はこれに満足してるので良しとしたい。うん。良く頑張った。自分。

 夕食は蕎麦を食べた。今日は油揚げ玉子海苔鰹節を入れた。蕎麦は良く食べるし、いつも同じようなものを入れている気がする。いま、東京は雨が降っているが、明日も降るのかどうか心配だ。明日こそ靴を買いたい。

2003年11月9日
カレーなし

 今日は仕事だった。寝過ごしたにも関わらず、朝から悠長にレタスキムチチャーハンを作って食べた。そのうえ、なんとか遅刻せずに職場へ着いた。

 仕事の後、同僚のライブを見るために新宿のクラブドクターというライブハウスへ向かった。折悪く小雨が降っており、最近穴があいたらしい私の靴に水が入って大変気持ち悪かった。この季節はまだ気持ち悪いだけで済むが、寒気が迫ると死活問題になるので早く新しい靴を買いたい。
 夕食は、ライブハウスへ行く途中、富士そばカツ丼を食べた。430円と、カツ丼にしては安かったから心が揺れ動いたのだが、しかし値段相応の貧相なカツ丼で、自分でカツを買って作ったほうが良かったと思った。
 クラブドクターは音圧が低くて良かった。音圧が低いと迫力が出ないが、身体に優しい。あの位だと疲れない。ちなみに、目黒の鹿鳴館とライブステーションは音圧が大きくて疲れる。サイバーとエリアは許容範囲。柏のザックスはボーカルが埋もれがちになる。無善寺と水族館は音うんぬんを言うとバチが当たる。

 帰りに京極を読んでいたら、「人を呪わば穴二つ」が「人を呪わば穴2つ掘れ」の略だと知った。そういえば、いままで「穴二つ」の意味をぜんぜん考えたことも無かった。何事にも納得のいく理由があるものだ。

 家に帰って、(30分遅れだったが)ケーブルテレビで「カウボーイビバップ」の映画版を見た。素晴らしいクオリティだった。映像もストーリーも良かったが、何より音楽がとても効果的に使われていた。菅野よう子はいつも良い仕事をする。

2003年11月8日
カレーなし

 昨日は眠かったのに、結局3時くらいまで起きてた。なので、朝起きたら11時だった。

 朝、というか昼食はキャベツとタマネギを親に貰ったコチュジャンで炒めて食べた。豚肉でも入っていれば、どんなに贅沢なことだろう。だが、仕方ない。無いものは無い。

 昼食後、洗濯をしながらずっと動画編集をしていた。作業自体は思ったよりはかどらなかったが、アルファチャンネルやらエフェクトやらモーションやら、いろいろ新しいテクニックを覚えたので良しとしたい。
 それにしても私はある意味すごいなあ。動画編集に、DTP、DTMと、どれもこれも商用レベルに達しない程度にできてしまう。器用貧乏とはまさにこのことだろう。

 夕食は油揚げ玉子を入れた蕎麦を食べつつ、を呑んだ。その後はシルバーガンをしていた。

 犬と仲人がかわいそう。

2003年11月7日
夜:適当なカレー

 納豆を食べて仕事へ行った。

 今日も真面目に仕事した。

 帰りに悪友に誘われ、高田馬場に寄り、麻雀に興じた。といっても、私の麻雀は適当に3つ揃えて適当にリーチをかけて適当にあがったりするものだから、人畜無害のまったく可愛らしいものだ。今日も平和に場所代の分だけ頂いて帰った。

 帰って、しばらくシルバーガンで遊んだ後に、カレーを食べながら、銀河英雄伝説を見た。いま、すごく、眠い。

2003年11月6日
カレーなし

 朝、寝過ごしたので電車の中でコロッケパンを食べながら仕事へ行った。

 仕事。囲碁において、初手天元という手がいかに不利なものか良く分かった。ちなみに私は「るろうに剣心読んでたから剣道できるよ」という人と同じ程度しか囲碁が出来ない。つまり「ヒカルの碁」を読んでいただけである。

 帰りにコンビニでチャンピオンを立ち読みした。「忌まわれ薬師」という新人読切作品がビックリするほどクオリティが高かった。立ち読みなのに、3度も読み返してしまった程だ。こりゃあすごい、これは2ちゃんねるで盛大な祭りになってるだろう、と思い、楽しみにしていたが、2ちゃんではスレすら立っていなかった。
 チャンピオン感想サイト『下手考』さんを見ると

>> 佐藤千絵子、読み切り。
>> グロいがなかなか魅力的な絵柄で、
>> 自己犠牲で病人を治す薬師の
>> 活躍を描く。20ページに
>> 設定説明とストーリーを詰め
>> 込んだ結果、駆け足過ぎて
>> 何だかよくわからない話に
>> なってしまっている。しかし
>> それはページ数がもっとあれば
>> それで済む問題。絵柄が濃くて
>> ごちゃついて見えるのは欠点だが
>> これももっと枚数あれば構成で
>> どうにか出来たのかも知れない。
>> 基本的にはよく出来た作品なので、
>> 作者の見極めは次回作を待ちたい。

 となっており、そんなに高い評価ではない。私が「スピード感がある」「軽妙なテンポ」と感じたものは世間一般では「駆け足過ぎて良く分からない」もので、私が「迫力がある」「カタルシスを感じる」と見たものは世間一般では「絵柄が濃くてごちゃついて見える」のだろうか。自分と世間との価値観の違いを痛感した。これは天才の仕事だと思うんだけどなあ。

 帰って味噌煮込みうどんキムチを入れて食べた。食べながら黒猫紳士スレを見たりした。後はシルバーガンで遊んだ。

2003年11月5日
カレーなし

 先日のオムレツのロールパンを作ったときに使ったミートソースの残りで朝食にミートスパゲティーを食べた。

 食べながら「未知空間の恐怖 光る目」という1960年映画を見た。この作品は、近年ジョン・カーペンターがリメイクをしたもので、私は高校生の時分、カーペンター版を見ていたが、驚いたことに、この1960年の物の方が出来が良かった。カーペンターがリメイクをしても、昔の方が面白いということもあるのか。

 日中はカリカリとジャンプ感想を書いていた。疲れた。

 夕食は味噌ラーメンを作って食べた。食べながら「奇厳城の秘密」という三船敏郎の出ている映画を見た。思ったよりもスケールの小さい話で、節操の無いストーリーだったが、先は読めるもののそれでもやはり良い話で、酒を呑みながら見るには十分な物だった。それにしても、この頃の特撮というのはすごい。今から見たら全く特殊な撮影とは思えない。昔の人はこの映像を見て、十分な脳内補完をしていたのだろう。すごいなあ。

 あと、お借りしたレイディアントシルバーガンを楽しく遊んだ。これ、難しい。斑鳩より全然難しい。いまのところ。

2003年11月4日
カレーなし

 家に来た親友と朝まで語り明かすことになった。彼は大学で出来た始めての友達―クラスメイト―であり、出会った初日から今まで、彼に対する尊敬の念は消えたことがないという、すごい男だ。

 しかし、その日私は早稲田祭パーティーですっかり疲れきっており、語り明かす気はさっぱりなかった。だが、話が盛りあがるとそういうわけにもいかない。
 始めのうち、私たちは黒猫紳士のことを紹介したり、最近作ったCD「TVショッピング」を聴いてもらったりと、軽い話題を交わしていた。だが、午前二時頃、私がいま注目しているサイト「OUR OWN TIME」現実的利用価値について、親友に意見を求めたあたりから、流れは大きく変わってくる。
 「OUR OWN TIME」にて「国家」というタームを彼は調べたのだが、「国家」の先が「nation」「state」に別れていた。無知な私は疑問に思い、「nationとstateはどう違うのだろう」と口にしたところ、彼は即座に「それは、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』によるとだね――」と、私の知らない学者の名前を出した後、淀み無く滔滔とnationとstateの違いについて説明を始めた。彼の説明は平易で分かりやすく、私のように理解力の足りない人間にも根気良く説明してくれるため、面白くないはずがない。私たちはnationとstateについて、しばし語り合った。
 そうこうしていると、MSNメッセンジャーからバンドメンバーのメタリカ君がメッセージを送ってきたので、「いま、nationとstateの違いについてベネディクト・アンダーソンを踏まえながら、ご高説を賜っているところです」と返すと、メタリカ君はロンドンのカーニバルにおける黒人の扮装が云々と言い出し、それに対し親友はクレオールがどうのこうのと、また言い返し、何も分かっていない私は一人で置いてけぼりになっていた。
 私は、これは少し得意分野に引き戻して対等な議論をせねばなるまいと思い、科学と宗教の問題に議論のテーマを移した。以前、メタリカ君に対し、私は持論の「科学とは信仰である」という意見を説いたことがある。彼がどのような見識を持っているかはともかく、このフィールドならまともな受け答えが出来るはずだ。たぶん。
 彼は、科学は信仰とは違う、という見識を持っていた。一応断っておくが、見識が分かれることは、私たちの友愛の情に対し何らマイナスとはならない。彼が私と違う見識を持っているということは、私の知り得ぬ理を彼が持っているということであり、彼ほどの男が持っている理であれば、それが浅はかなものであるはずがない。その理を知ることは、どちらにしろ私の益となるはずだ。この場合、見識が違うことはむしろ歓迎すべきことである。
 ――で、私は「科学=信仰」であるという持論を、確率の問題や、精神医学の問題などを含め説明した(誤解の無いよう言っておくが、持論といっても所詮二十歳そこそこの人間の持論など受け売りのもんじゃ焼きのようなものだ)。しかし、彼はその都度、「ああ、それは価値判断の問題だね」「それこそ、クーンのパラダイムシフトだよ」と、全てひらりと交わしていった。そうこうしていると、メッセンジャーでメタリカ君がもう寝るといった事を伝えてきて、最後に「科学は価値判断をしない、ということだけ考慮しておいてください」と言い残して落ちていった。奇しくも、それは親友の述べていた内容と同じであり、何時の間にかメタリカ君もこの問題に対して自習していたらしい。困ったなあ。また、一人取り残されている。

 と、まあ、そんなことを熱く議論していると、朝になった。何時の間にか朝になっていたので二人ともビックリした。


 親友を駅まで送った後、眠りに落ちた。起きたら昼3時だった。それから、ずっと4日分の日記を書いている。夜は昨日貰ったパスタいなり寿司を食べた。実は11月3日の日記は、早稲田を愛する気持ちが高揚するあまり、早稲田を激賞する文を長々と綴っていたが、後から見返すと、東大はゴミだ、カスだと、あまりに苛烈な内容だったので、自主規制して削除した。7時間くらい日記を書いていたので、いい加減疲れた。

2003年11月3日
カレーなし

※本日の日記も、早稲田祭の影響のため、独善的かつ扇動的かつ優越感に満ちた、著しく自尊心の肥大したものとなっております。あらかじめご了承下さい。やはり、一切の異論・反論は受けつけません。

 今日は早稲田祭の2日目でもあるが、何気に自分のバンドの企画で立食パーティーを行う日でもあった。というわけで、朝から照り焼きチキンロールと、オムレツとミートソースのロールを作ることにする。
 醤油・酒・砂糖で作ったたれ鶏肉10分ほど浸したあと、それをフライパンでゆっくりとたれを絡めながら焼き上げ、照り焼きを作る。焼き目が非常に美しい。中央に切れ目の入ったロールパンにからしバターを薄く塗り、その上に生レタススライスチーズを乗せ、1cm程度の厚さに切った鶏の照り焼きをたっぷりと盛りつける。素晴らしい見た目だ。見た目だけならカネを取れる。
 オムレツの方は、砂糖をたっぷり入れたを焼き上げた後、それを程よい大きさに切り分ける。先ほどのロールパンに、やはりからしバターを塗り、レタスチーズを乗せ、さらにミートソースを潜ませた上から蓋をするようにオムレツを乗せた。こちらは照り焼きほど見た目が美しいわけではなかったが、味見をしたところ甘いオムレツが口当たり優しく美味しかった。
 
 で、早稲田祭である。今日は後輩と早稲田祭を回る予定だった。遅れて来た私は後輩と合流したあと、文学部キャンパスへと向かった。今日の楽しみへと、昨日は見るのを止めておいた「早稲田もんきー」を見るためである。だが、私たちが行った時、ちょうど早稲田もんきーは開演中であり、しばらくの待ち時間を潰すため、後輩の強い勧めで川嶋あいとかいう人(有名人らしい)を見るために記念会堂へ向かった。
 川嶋某の曲を2曲ほど聴いていると、早稲田もんきーの次回開演時間が近づいてきた。せっかく早稲田祭に来ているというのに、こんなどこぞの馬の骨とも知れぬ有名人など見ているヒマはない。私は後輩に「もんきーへ行こう」と誘ったが、彼は川嶋某の方に興味があるらしく、そこへ残留することとなり、私は一人で早稲田もんきーへと向かった。
 
 早稲田もんきーの会場へと近づくと、そこには白い布汚い字「見たら損するよ」「絶対見るな」と書かれたゴミのような横断幕が中途半端にぶらさがっており、今年もそのクオリティの高さを確信する。また、会場から出てきた観客と思しき人たちが、「本当につまらなかったね」「微妙に似てないし」「去年はもう少し笑えたんだけどなあ」「後味悪いよね」「早稲田の人に早く帰れって言われた」とやるせない顔で口々につぶやいる。皆、本当に不満気だ。今年も期待して良さそうだ。
 そして……今年も早稲田もんきーは素晴らしい出来だった。本当に、くだらない。笑えない。金を払って入ったにも関わらず、最初20人いた客が終わったときには5人しか残っていなかった。前評判通り後味も最悪だ。一切のカタルシスを感じさせない。存在自体がゴミだ。酷すぎる。素晴らしい。

 何が素晴らしいか、と言えばだ。去年もそうだったが、「早稲田もんきー」は一貫して客を楽しませないことに全力を注いでいることだ。ギャグだって、そのままにしておけばある程度笑えるものを、いちいち不必要かつやる気のないツッコミを入れることで、全てを台無しにしている。脚本の隅々から、「客を楽しませないようにしよう」という積極的な意志を感じる。そのくせ、そのくだらないギャグのために使う小道具の豊富さといったら、どうだろう。小物はリンゴごはんから、大物は電子レンジビニールプールまである。言うまでもないことだが、家から電子レンジを持ってくるのは大変なことだ。また、彼らの演技からは明らかに練習の跡を感じる。
 つまりだ。彼らは「人を楽しませないこと」努力をしているのだ。あれだけの小物を揃えるのは本当に大変だし、脚本だって「客を笑わせない」というレベルを保ちつつ調整を重ねたものだろう。演技だって練習している。20人の予定を合わせてリハーサルを行うだけでも大変だし、それだけの練習場所を確保するのも大変だ。そして、何より、何よりも「客を笑わせないというコンセプトに、それだけの努力エネルギーを注入する人間が20人もいるという、この事実!恐るべきことだ。ちょっと信じられない話だ。
 これが東大とか慶応とか、そこらへんのお坊ちゃん大学であれば「せっかく努力をするのだから、笑ってもらいたい。客を楽しませたい」と、そのような安直愚昧な考えを持つであろう。人を楽しませるために努力する当り前だ。そんなことは誰にだってできる。だが、わざわざ人を不快な気分にするために、くだらないものを作るために、努力する。これはできない。こんなことができるのは早稲田だけだ。何故なら、早大生は基本的に根性が腐っているからだ。性根が根本的にひん曲がっているから、このようなロクでもないこと団結できるし、成し遂げられるのだ。

 芸術(アート)とは、それに触れることで快を得るものではない。だからといって、不快になれば芸術というわけでもない。快とか不快とか、そういう次元のものではないのだ。そうではなく、そこから受ける衝撃だ。芸術に大切なのは、衝撃だ。その作品に触れることで、見た者の常識や世界観に穴を穿ち、その穴から違う世界を見せる。その作品に触れる前と後で、その人の見る世界が違って見える。そういうものが芸術だろうと私は思う。だから、早稲田もんきーの作品高く評価できる。「こんなくだらないものを真剣に作る人間がいるのか!」。彼らの存在自体が衝撃的だ。
 これが、もし東大生ならば「人を楽しませないものなんか、真剣に作ってどうするんだ」という合理的精神が働き、このようなイベントを企画しようなどとはまさか思わないだろう。正論だ。だが、正論のどこに衝撃がある?早大生は違う。早大生は根性が腐ってるから、「客が嫌な顔して帰っていったら面白いだろうなあ」というだけで、努力団結もできるのだ。やっぱり早稲田はすごい!素晴らしい!

 早稲田もんきーに大満足した後、ふらりと立ち寄った「タモリ研究会」。これが思わぬ伏兵であった。もともと、「タモリなんて何を研究することがあるんだ?」という興味だけで覗いたのだが、そこには名も知らぬ童話作家の歴史年表などが様々な写真と共に陳列されており、『ダニロ・キシュの世界』と銘打たれていた。おそらく、ダニロ・キシュなる人物が、この童話作家のことなのだろう。どうしたのだろうか。「タモリ研究会」などという名を冠しながら、この団体は普通の文学研究サークルなのだろうか。そうだとすれば、酷く興醒めだ。
 だが、少し眺めてすぐに私は気付いた。ダニロ・キシュ。これは、架空の人物である、と。一見それらしい体裁を取った歴史年表や写真なども、よく見ればハチャメチャだ。この手法は……そうか、ジョアン・フォンクベルタか。おそらくは偶然の一致であろうが、それにしても、ここまで作り込むとは。……まったく恐れ入る。
 しかし、私などは日頃から様々なものに懐疑的であるため、この仕掛けにもすぐに気付くことが出来たが、パッと見ただけの普通の人なら騙されてしまうのではないだろうか。特に良く出来ていたのがダニロ・キシュの著書として紹介しているハードカバー本で、これは他の作者のハードカバー本の上から、カバーだけ自作して被せたものなのだが、このカバーが驚くほど良く出来ており、体裁から紙の質、レイアウトまで、普通に書店に置いてあってもおかしくないレベルで作られていた。もし、このアイテムがなければ、私はあと3分早くこの仕掛けに気付いていただろう。素晴らしいクオリティ、素晴らしいエスプリだ。そして、やはり根性が腐っている。どの程度の人がこの仕掛けに気付いたのだろうか。タモリ研究会からは一切の説明が無く、気付かないなら気付かなくていい、という雰囲気を漂わせている。むしろ、「勉強になったなあ」という顔で帰っていく客を見て、彼らは苦笑いを必死に噛み殺していたのではなかろうか。
 ちなみに、後で調べたところ、ダニロ・キシュという作家は実在していた。だが、「タモリ研究会」で紹介していた内容とはまるで違うもので、タモリ研究会はそれらしい名前だけ流用したのだろう。

 タモリ研究会の会場から抜けると、昨日の「魁!全身書道会」が文学部キャンパスに場所を変え、またパフォーマンスを行っていた。昨日の芸の焼き直しかと思って見てみると、まったく違うネタを用意しており、それは大変エスプリの利いたものだった。芸に対する真摯な心構えを感じた。彼らは一体何者なんだろうか。

 昨日・今日と続けて2日間早稲田祭を満喫したが、今年は中満足だった。正確に言えば、大満足と中満足の間くらいだろうか。「タモリ研究会」「かくれんぼ同窓会」「早稲田もんきー」「魁!全身書道会」4つ大ヒットがあったのだから十分だろう。普段生きていて私が感動するようなものなど3ヶ月に1度あるかないかだ。2日で4つ、流石は早稲田、私が愛する母校だ。素晴らしい。
 だが、私が大満足とまで言えなかったのは、その満足の度合いが私の想像の範囲内であったからだ。私が感動した上記の4つは、早稲田祭に行く前からなんとなく予感はしていたものだった。そうではなく、何の前知識もない私を強引に引き摺りこんで、無理矢理感動させるような、そういうものが幾つもあれば、きっと大満足できるだろう。今年はまだ二年目だから仕方が無いが、あと数年もすれば、私を大満足させてくれるのではないかと信じたい。

 その後、バンドの立食パーティーのため、会場の無善寺に移動し、つつがなくパーティーを行った。しかし、雨が降ったせいか客足があまり伸びず、また赤字となった。ライブのたびに赤字になるようでは駄目だ。やはり、バンドは少しお休みしよう。

 パーティーに来てくれた大学時代の親友を私の家に泊めることになった。続く。

2003年11月2日
カレーなし

※本日の日記は、早稲田祭の影響のため、偏愛的かつ熱狂的かつ偏見に満ちた、著しく自重心を欠いたものとなっております。あらかじめご了承下さい。なお、一切の異論・反論は受けつけません。

 迷っていたが、早稲田祭に行くことにした。

 迷っていたといっても、早稲田祭に行くこと自体を迷っていたわけではない。早稲田祭には明日行く予定だったのだ。迷っていたのは、明日行くにも関わらず今日「も」行くかどうか、だ。
 今日は今日でやることがあった。だが、昨日早稲田祭のオフィシャルページを見ていたら、どうにもこうにも我慢できなくなった。今日しか見れないイベントもある。その中に珠玉の逸品が紛れている可能性も十分ありうるのだ。迷った挙句、今日やるべきことは家に帰ってから頑張ることにして、とりあえず早稲田祭に行くことにした。

 去年の早稲田祭はイマイチだった。早大生というものは基本的に高い能力を持っている。だが、「高い能力を持つ」というだけならば、東大とか上智とかそこらへんも同じことだ。早稲田がそれらのへなちょこ大学と一線を画するのは、その高い能力をとんでもなくくだらないこと無駄遣いする精神性にある。
 しかし、去年の早稲田祭は残念なことに、高い能力まっとうな手段と目的の元に表象しているものばかりだった。幾ら完成度だけ高かろうと、そんなものに私が感動するわけがない。高い能力をまっとうに使うという行為には、如何なる意外性も驚きも無く、全て理解の範疇であり、従って感動がない。見るものの理解の範囲を超え、その見識と認識の壁を打ち破って新しい世界を見せたとき、そのとき初めて人は感動するのだ。いくら能力が高かろうと、それを常人の理解の範囲内で用いている限り、そこに感動などない。去年は、己の英知をドブ川に投げ込むが如き団体2つほどあり、彼らが辛うじて早稲田の命脈を保ってはいたが、全体的に見ると法政には勝てないレベルだった。
 
 今日の個人的な目玉は、「魁!全身書道会」という団体だった。名前からして頭が悪い。期待大である。「全身書道会」のパフォーマンスは4時からだったので、それまで他の団体を見るべく、早稲田構内を漂浪した。

 まず私が向かったのは「珍味おやじのことを想う会」である。この会は早稲田近辺のラーメン屋である「珍味」のおやじを招いて、おやじの講演会を開くという、本当にどうしようもない企画を立てていた。そこらへんのおやじの講演会という、大胆不敵な企みには期待するところ大きかったが、残念ながらおやじから出演を拒否されたらしく、会場は「珍味」に関する情報・データを陳列しただけのありふれたもので、肩透かしを食らった感じだ。また、その足で「鶴岡法斎ゼミ」を訪れたが、何故か閉まっていた。

 期待していたニ団体の出し物が不発に終わり、少し意気消沈した私は、ここで流れを変えるべく、そのクオリティに絶対の信頼を寄せられる団体を訪れることにした。早稲田で最大規模のくだらなさを誇る「かくれんぼ同窓会」である。
 この団体は私の友人が作ったサークルだが、主な活動内容が「かくれんぼ」というくだらなさにも関わらず、わずか2年でメンバーを100人以上に増やし、また、その大人数でも効率的なかくれんぼが行えるルールの整備を確立した侮れない集団である。さらに、創始者の友人が卒業した後も、後を継ぐ後輩に恵まれ、かくれんぼ同窓会はいまだ繁栄の途にあり、最近では村興しにまで協力するという驚くべき行動力を見せている。

 かくれんぼ同窓会は早稲田祭では「実技によるかくれんぼ検定」を行っているという。私はその受付場所へと向かった。
 かくれんぼ同窓会の受付では、黒いスーツに身を包んだ女性が受付処理を行っていた。また、受付では他にも数名のスタッフがノートパソコン、プリンター、デジタルカメラなどの機材を使用し、信じられないほど効率的に受付処理を行っていた。その受付風景は、とてもかくれんぼの受付をしているとは思えないほど洗練されており、相当の期間に渡る企画会議を経てこの形に至ったであろうことを想起させた。

 検定のルールを簡単に説明すると、大学構内のどこかに15人のかくれんぼ同窓会メンバーが隠れており、彼らを見つけるごとにスタンプカードにハンコを押してもらえる。このハンコの個数により5級から1級までの評価を得ることができるというシステムだ。
 私は歩き出した。そして、辺りを見まわす。それらしき人は発見できない。隠れているかくれんぼ同窓会メンバーは、仮装をしているためすぐに判断できると説明されたが、しかし、早稲田祭では一般の学生も仮装をしている場合がある。私は心配だった。これはかくれんぼ同窓会のシステム上の不備ではなかろうか。はたして、かくれんぼ同窓会のメンバーと、仮装をしている一般学生を見分けることが出来るのだろうか……。

 ・・・あ、いた。

 父・母・幼稚園児などの扮装をした男女が、植え込みの中ちゃぶ台を囲みながら、をメーンディッシュに昼食を摂っている。テーマは、昭和30年代の家族像……といったところだろうか。すごい。祭りというハレの世界にあって、なお、浮いている。その一隅だけ、完全な家族空間だ。全然隠れてはいないが、彼らがかくれんぼ同窓会のメンバーであることだけはハッキリと分かる。システム上の不備?そんなものは彼らには無かった。

 タイムリミットとなる1時間後、受付へ戻ると、スタンプカードに顔写真を貼られパウチ式のラミネート加工を施された。恐ろしい。なんという手際の良さ、なんという効率性。かくれんぼというくだらない主題を、ここまでの情熱とエネルギー、アイデアと団結心をもって挑むとは、流石は早大生である。私は身震いした。

 これがどれほどのことであるか、少々紙幅を費やしたい。まず、私が見る限り、今回かくれんぼ同窓会がこの形で早稲田祭に参加するにあたり、このシステム設計の裏には少なくとも3人以上のアイディアマンがいる。彼らの作り上げた一連のシステムを見ると、方向性の違う、柱となるアイディアが3種類見出されたからだ。おそらく始めにあったのは「同窓会メンバーが隠れて、それをお客さんに見つけてもらう」というアイディアだろう。これを提起したのが、まず一人。そこへ、スタンプカードシステムとそれに付随する受付システムを提起したのが、おそらく一人か複数人。ラミネート加工を打ち出したのも、また誰か違う一人だろう。そして、隠れるメンバーが仮装をするというアイディアを出したのがまた一人。いかな優れた人間とはいえ、一人の人間が打ち出せるアイディアの横幅は限られている。彼らのシステムが内包するバラエティを見るに、3人以上、おそらくもっと多くの人間が積極的にアイディアを提出した結果、このような形になったのだろう。このレベルのアイディアを出す人間を3人以上抱えているという人的資源。また、そういったアイディアを協議し、積極的にシステムの向上に努めた団結心。これだけでもサークルとしてはかなり優秀なレベルである。
 次に、かくれんぼをするメンバーであるが、彼らの扮装を見るだけでも、そこから彼らの積極的参加意思を強く感じる。仮装は簡単なものではない。もちろん東急ハンズに行けば必要な物を数千円で購入することができるが、この二日間のためだけに数千円を出すという気迫をあなたは持ちうるだろうか?また、家から重たいちゃぶ台こんなことのためだけに持ってくるだろうか?そのエネルギーだけでも、並大抵のことではない。
 さらに、彼らは大切な大学生活のメインイベントである学祭に、「一日中隠れている」という姿での参加を良しとしているのだ。この覚悟も称えるべきものであろう。己のサークルと自分たちの行動が「客を楽しませている」という、絶対の、揺るぎない自信がなければ、とても貫徹できる行動ではない。おそらく彼らの精神力を支えるものは、準備段階にて行われたであろう綿密な協議と、完成された受付システムや、スタンプカードのラミネート加工に見られる全体のハイクオリティだろう。全体のクオリティが高いと部分の士気も高くなり、「自分のところでクオリティは下げられない」という意識が働くからだ。しかしそれにしても、これだけの行動力と覚悟を持った「かくれるメンバー」が15人も在籍しているという人的資源の豊富さは驚くべきものである。
 受付のメンバーも然りである。彼らはノートパソコン、プリンター、デジタルカメラなどを淀みなく操り、受付処理を実に効率的に行っていた。まず第一に思うことは「よく、プリンターを持ってくる気になったな」ということだろう。プリンターは、重い。家から大学まで運ぶなど、簡単なことではない。さらに、彼らの技術上の問題もある。デジタルカメラで写真を撮り、それをノートパソコンに転送して、プリンターで出力するだけではあるが、全員がこれらの操作をできるわけではなかろう。このパートは、おそらくこの顔写真システムを提唱した人間が率先して行っていたと思われるが、学園祭の真中にありながら、一日中パソコン操作を行うことを良しとする精神力の裏には、やはり自分の提唱したシステムに対する自負心周囲の理解があったのだろう。
 最後に、何よりも重ねて強調しておかなければならないのは、彼らのやってることが所詮「かくれんぼ」であることだ。検定は無料だ。どんなに客が来ても、彼らは一銭も儲からない。そこに打算はない。彼らは「かくれんぼ」という、どうしようもなくくだらないことに、お金が稼げるわけでもないのに、これだけの団結力、行動力、経済的投資、情熱、エネルギーを持って挑んでいるのだ。「なんでオレたち、こんな真剣にかくれんぼやってるんだろう」虚しくなることなどない。何故なら、早大生はバカだからだ。頭が悪いからだ。頭が悪いから、何の疑問も抱かず、こんなことに全精力を注ぎ込めるのだ。そして、それゆえに、人を感動させることができるのだ。これが小賢しい東大生や慶応生なら、端から「かくれんぼを学祭で行おう」などとは思わないだろう。能力が高いだけでは駄目なのだ。頭が、悪くないと、駄目なのだ。

 かくれんぼ検定を終えた頃、良い頃合となったので、私は「魁!全身書道会」を見に行った。正直、不安もあった。おそらく、その団体のネーミングからして、いわゆる人間筆であることは間違いなかろう。髪の毛に墨を付け、逆さにして書くアレだ。確かに目を見張る芸ではあるが、だが、それだけでは早稲田でなくともどこでもやっている、誰でも思いつく芸だ。早稲田であるからには、さらに、何か一つ付加するポイントが欲しい。

 果たして、私の懸念はやはり杞憂だった。素晴らしい。早稲田の人間がそのような安直な芸で終わるはずが無かった。
 実際、彼らの芸はやはり人間筆ではあった。それがメインではあったが、ただ、彼らは全身書道を武芸の一派として歴史的に仮託し、その設定の元で人間筆の芸を見せるところに独創性があった。人間筆に入る前の前口上から、全員の挙動所作、発声法に至るまで、一貫したテーマの元にしたてられており、そこには彼らの真摯な努力研鑚の跡が見られた。もっと分かりやすい言葉で言うならば、彼らは「人間筆」の面白味を引き出す最大限の努力をしていたのだ。そして、それは実に効果的だった。
 信じられないことかもしれないが、彼らはおそらく相当の練習を経て、早稲田祭に挑んでいる。「人間筆」という、鬼面人を驚かす一発芸的要素の強い出し物に対し、これほどその魅力を引き出すことに情熱を注ぐとは。そして、この過酷な出し物に対し果敢に挑む人間が7人もいるとは。まったく。本当に、恐るべき集団だ。

 かくして、私は一日目の早稲田祭を後にした。いろいろと見たが、やはり「かくれんぼ同窓会」「魁!全身書道会」は他と一線を画したクオリティだったと思う。
 私は家に帰ってポトフの残りを食べた。なお、朝食もポトフで、昼食は早稲田の名店「三品」牛めしを食べた。まあ、私が何を食べたかなど、そんなくだらないことはどうでもいいだろう。私は、読者のみなさんに、いかに早稲田が素晴らしい大学であるか知っていただければ、それに勝る喜びはないのだから。

2003年11月1日
カレーなし

 朝、メンチカツ納豆朝食を食べて仕事へ行った。今日の残業時間3分だった。まあまあか。

 帰りに肉のハナマサに寄って、鶏のモモ肉を購入した。3日の立食パーティー用の食材として買ったのだが、また、ポトフが食べたいというのもあった。100g60円弱で、確か1キロ強600円ほどで購入した。

 帰ってポトフを作る。ポトフといっても、詳しい作り方は良く分からない。まあ、適当にやってもそんな酷い味になるわけがない。肉は煮こめばそれだけで美味いというのが持論だ。
 そういうわけで、キャベツを適当に大きく切る。タマネギを二つに切る。で、それらを鍋に入れる。鶏肉600gほど入れる。ワインが無いので日本酒を入れる。胡椒を適当に入れる。コンソメを入れる。蓋をする。2時間ほど放置する。料理終了。

 と、上記のように至って適当に作ったポトフであったが、その味はやはり何の問題も無く、大変美味たるものであった。もしかしたら、塩・胡椒を適量用いたり、ちゃんと白ワインを使用したりすれば、もっと美味しくなるのかもしれないが、とりあえずお肉がとろけるほど柔らかいだけで幸せだ。

 そのあと、いろいろやることがあるのに、全てほっといてゲームした。仕事の後、ただちに作品製作に打ち込めるほどストイックではない。

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